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 新コロ以前の感染症診療 発端:乳幼児の本物を診るために 

嗚呼、懐かしい。新コロ以前の診療に戻りたい。既に、米・MLB野球場のスタンドでマスクなしで笑顔が溢れ、声援をしている映像は with Corona を象徴している。英・女王の国葬に関連し、国民がマスクなしで長蛇の列となっていた。→ウィーン★

​日本では、夏季を迎える季節に、熱中症予防の観点で、戸外で他人と2m以上の間隔が保たれる際は、マスクを外すことが提唱された。現時点でも”0密”が回避される環境では、マスクの必要性はない。(例外は花粉症等の発症・悪化予防での装着)​

◆ 私事、コロナ以前は、マスクを着用することはあり得なかった。外来診療、予防接種等の院内業務や乳幼児健診の際、さらに、東部医師会急患診療所小児救急当番の際など。​

結果? 小児の感染症診療を開始した1978年度以降、感染症での欠勤は皆無で推移しています。

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ロタウイルス性腸炎の体験記

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1981年度以降の鳥取県立中央病院時代、冬季に病院当直を担った際、夜時間帯になり、下痢!再々の便意があり、”米のとぎ汁”・水様性下痢がシャーと見事に!(記憶のある限り、ホースで散水するごとくの水様下痢は初めてで最後!)

大きなやかんに水を入れ、当直室に持ち込み、がぶ飲みを続けた。幸い、嘔気は皆無!

再々トイレ通いをして、シャーと出し(:よく出るものだと妙に感心しつつ)、飲み続けた。

結果、外が明るくなる頃には、便意が遠のき、検食時間帯にはほぼ止んだ!

この間、排尿もし続けていた。即ち、脱水徴候は回避し得た。

当時のトイレはしゃがみトイレで、最後に拭き取りをした。水道水での手指洗浄も真面目に!

で、何事もなかったがごとくの言動をし、通常診療をこなし得た。

中病時代のインフルエンザ診療

迅速検査保険診療以前は、診て診断していた。

中病は定点であり、コレは?!と気になる病状等の児を診療した際は、保護者に説明し、児の咽頭拭い液を採取し(+便の持参もお願いし)、検体を県衛生研究所に提出していた。

シーズンが始まる頃、「インフルエンザだ!」と診た症例然りで、結果は約1か月後に、毎月のレポートとして、ウイルス分離例の一覧表が届いていた。

自身でカルテを確認し、カルテ記載をすることが定着していた。後年、(小生から小児科部長を引き継ぐことになる)H医師が関心を持ち、確認作業をしていた。冬季に、「また大谷チャンや!」と、小生がシーズン最初のインフルエンザ事例を診断したことをハイトーンの声で発していたことを思い出す

インフルエンザの迅速検査が定着した後、診療の質の低下を懸念している。

インフルエンザに限らず、特異的な所見・経過を呈した症例でのウイルス分離例は多々ある、

例えば、気になる気道感染症例が相次いで、検体を提出したら、結果「エコー30型」との報告が。当時は、中病での採血検体の残余血清を、検査室が保管し、定めた期間を過ぎた検体を同じ県の機関である衛研が保管していた。

担当技師は、年代毎にエコー30型の抗体スクリーニング(4倍)を実施し、結果、約30年間流行がなかったことを立証した。即ち、30歳未満では抗体陰性で、それ以上の年齢層で抗体陽性者の割合が高まっていた。

血清疫学を学んだ機会となった。

ウィーン・ベルリン

毎年初夏の恒例・野外演奏会は、ウィーンフィルは世界文化遺産のシェーンブルン宮殿・庭園で、ベルリンフィルはヴァルトビューネ(美しい森)野外ステージで開催される。

コロナ禍初期の2020年は初めて中止になった。

2021年のウィーンは観客を制限しての開催で、聴衆はほぼマスク着用なし!2022年は人数制限を排し、通常通りの開催。

ベルリン然りで、マスク着用は希少(?居た?)で、アンコールの最後に定番の「ベルリンの風」が演奏され、指揮者が導いて、聴衆は拍手と共に、指笛も!かつ、大声の声援も!

​小生、”ウィーンへの里帰り”は、いつになったら果たせるのか・・・ [戻る

山陰感染症懇話会

​残念ながら、発刊終了となった「山陰感染症雑誌」は、山陰感染症懇話会が編集・発刊していた。

1978年、卒後2年目に、鳥取県立中央病院で一般小児科研修をした。当時、鳥大ウイルス学に(阪大から)臨床ウイルス学などの栗村 敬 教授、中病小児科(副院長)飯塚幹夫先生(同郷:平田市出身)と衛研が連携し、山陰感染症懇話会の黎明期だいた。1981年度、中病勤務を開始した当時(飯塚先生は厚病院長として異動後)安東吾郎先生の基で、感染症懇話会の下働き等をこなしすと共に、発表機会を衛研の石田 茂 さんと競うがごとくであった。

栗村先生が阪大微研教授に移動された後、ウイルス学教授は長崎大からHTLV-1 など基礎ウイルス学の日野茂男先生(東大出身)が着任され、山陰感染症懇話会にも出席してくださった。

懇話会後の懇親会も定番だったが、後年、日野先生が「この会が一番面白い。楽しみだ」との趣旨で発言された。懇話会では、今に留まらず、病態などの深読み・先読みを議論していたことからかと・・・。

平成年度になって、恩師の安東吾郎先生が郷里の医院を引き継ぐとして、中病を去られた。その後、感染症懇話会の鳥取市開催などで、心楽しく、お世話することが続いた。同志との論議・懇談も楽しかった。

小生が、地理的に鳥取県東南端の僻地に異動した後、スッパリと後輩に託した。戻る

大谷恭一,ほか:1982年鳥取県東部におけるエコー30型ウイルス感染症.山陰感染症雑誌.5:6-11.1983.

例えば、2009年の新型インフルエンザ汎流行時に、智頭中で最初に流行した発端は、八頭町在住の教師の小学生二人が相次いで発症し、インフレん座迅速検査陽性で、次いで、(濃厚接触歴が明らかな)父親が発熱・受診し、迅速検査が実施されたら陰性で、「インフルエンザでない」と診断され、解熱後、出校して、部活動で生徒に被感染させた例がある。

元気な大人が発熱し、家庭内で濃厚接触が明らかな例であり、臨床診断は可能である。迅速検査が陰性を呈した際に、良質の検体が得られているか否かの確認や、検査前に迅速検査結果が陰性となる可能性を話しておくことも不可欠!

※ 新コロでも同様に、インフルエンザの迅速検査同様の定性検査では、病状と検体の質によって、陰性判定になることは当然です。この観点での見逃しは、一般人が、不適切な検体採取で、定性検査をした場合にも多発する懸念がある。

実際に、感染源が不明だった身近なK例で、新コロを発症(迅速検査陽性)し、回復した後、約1か月を経過してから、頭髪を整える某店を再訪した際に、前回来訪の2日前から家族が順々に発熱したとの情報に接したとのことで、確認すると、家庭で行った新コロ迅速検査は陰性だったとの情報も得たと。K例は、小生にその話をしてくれた。被感染経路が不明だったKさんは、某店で被感染したとの理解ができる。時効的な経過だが、親しいという某店の方に、「迅速検査陰性だったが、新コロと診てよい。家族での集団免疫を獲得している現状にある」と積極的な姿勢で話して良いとの啓発した。

感染性が強いオミクロン変異株での家族発症があった際は、家族の集団免疫獲得機会になり得る観点は論じられるこがない? 戻る

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